第15話 誰も信じない真実
リプリーのセダンには、タバコの匂いが染みついていた。
車内は下水道より臭い。
古びたシートには焦げ跡があり、ダッシュボードには埃が積もっている。
窓ガラスには手の跡まで残っていた。
いったい何年掃除していないのか、ディックには想像もつかなかった。
リプリーは男を乗せたまま、近くの工場の駐車場へ車を入れた。
工場は白いプレハブ建築だった。
周囲を山に囲まれ、斜面には薄暗い木々が生い茂っている。
風が吹くたび、葉の擦れる音が聞こえた。
遠くで鳥が鳴いている。
リプリーはエンジンを切った。
「フレデリックを殺したのは、お前だろう」
ディックの顔を見ながら言った。
期待したような反応はなかった。
ただ、妙に落ち着きがない。
額には汗が浮かび、視線はあちらこちらをさまよっていた。
「何を言ってるんだ、刑事さん」
「ほう。そう来たか」
リプリーは深く息を吸い、指の関節をポキポキ鳴らした。
車内に重苦しい沈黙が流れた。
「待ってくれ」
ディックが先に口を開いた。
「あいつは森へ行って、バカでかいハエに襲われたんだ」
リプリーは眉をひそめた。
「ハエだって?」
「本当なんだ」
「お前、自分が何を言ってるかわかってるのか?」
「フレッドはハエに殺されたんだよ、刑事さん。あの森の奥にいるんだ。こんなでかいやつが」
ディックは両手を広げた。
まるで想像力のありすぎる子供だった。
だが、その目は真剣だった。
手も震えている。
「おじさんには、とても信じられないね」
リプリーは言った。
「窃盗容疑者ってのは、追いつめられると妙な嘘をつくもんだ。だが、あんたの話はずいぶん突飛だな、ディック」
「嘘じゃねえ」
「そういうのを大ボラって言うんだ」
「嘘じゃない!」
ディックは声を荒らげた。
「本当なんだ。誰も信じてくれねえんだよ。仕事仲間も病院へ行けって言いやがる。あんたみたいに、俺がフレッドを殺したと思ってる奴もいる」
声が震えた。
「本当なんだよ、お巡りさん」
ディックはダッシュボードに額を押しつけた。
そして泣き始めた。
リプリーは黙って眺めた。
やれやれ。
今度は泣き落としか。
最初はそう思った。
だが、涙は止まらなかった。
肩を震わせ、声を殺して泣いている。
リプリーは、今朝のオットーを思い出した。
ひどく痩せた顔。
何かに生気を抜かれたような表情。
そして、あの話をしようとした途端に乱れた呼吸。
オットーも怯えていた。
目の前の男も怯えている。
二人とも、同じような話をしている。
リプリーはしばらく考えた。
「わかった」
ディックが顔を上げた。
「そこへ行ってみよう」
「え?」
「お前が言ってる場所だよ」
リプリーはディックを見た。
「話が本当なら、少なくともフレッドを殺したのはお前じゃないと信じてもいい」
ディックの頬は涙で濡れていた。
大人に許されて、ようやく泣き止んだ子供のような顔だった。
「本当か……」
疑うようにリプリーを見つめた。
「ああ。ただし、全部信じたとは言ってない」
リプリーは続けた。
「あのGT-Rは没収する」
ディックの顔がまた曇った。
「密猟程度なら、大した罪にはならんだろう」
「例の場所へ案内するよ」
ディックはようやく言った。
「でも、禁猟区でハエを退治するのも密猟になるのかい、刑事さん」
リプリーは首を傾げた。
「実は俺にもわからん」
ディックが目を丸くした。
「興味があるのは、そんなことじゃない」
外はすでに夕暮れていた。
リプリーはエンジンをかけた。
ヘッドライトが、薄暗い工場の敷地を照らす。
セダンはゆっくり動き出した。
そして、チェインバーグの森へ向かった。
つづく
